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6週連続企画<新しくなったかもしれないホン・サンス>第6週
そこに、キム・ミニがいたから、ホン・サンスは変わった
相田冬二 × 小林淳一

映画に関するノベライズ、執筆を手掛ける相田冬二にA PEOPLE編集長・小林淳一が聞く対談連載。7月21日に行われるトークライブでも取り上げるテーマは「ホン・サンス」。今回の対談では特に「キム・ミニ」について語る。


相田冬二(以下相田)今回、シリーズ企画「それぞれのホン・サンス」として、菊地成孔、チャン・ゴンジェ、青山真治、井口奈己と聞いてきたんだけれど、ホン・サンスはもちろん、キム・ミニについても受け止め方はそれぞれ違っていた。映画としては菊地さんが「正しい日 間違えた日」、青山さんが「それから」、井口さんが「クレアのカメラ」を一番に推しました。その理由の大きなところにキム・ミニという存在がある。

小林淳一(以下小林)相田さんは「それから」ですよね。

相田 小林さんは、「夜の浜辺でひとり」ですよね。そこを聞いてみたい。そこから「キム・ミニ論」を始めたい。

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「夜の浜辺でひとり」

小林 「夜の浜辺」を見る前の日に、テレビで「情熱大陸」を見たんですよ。中村アンの回だった。肩書は女優・モデル。出来がいいとかでなく、「夜の浜辺」を見るとき、考えてしまったんですよね。「夜の浜辺」のキム・ミニって自由にやっているようにみえる。もちろん演出されている部分もあるでしょう。でも、例えばコートは上のボタンしか留めていない。ホン・サンスの指示ではない。スタイリストが言ったのかもしれない。では、椅子に座って、そのコートを脱ぐとき、親指を下から入れてぐいってもちあげてコートのボタンをはずす。これは本人だろうと思うんです。もちろん、映画にそんなことはよくあるんだけれど、この映画ではそうしたしぐさや立ち居振る舞いがストーリーに貢献していかない。「情熱大陸」じゃないかと。モデルって、生き方とか形が求められますよね。ここでのキム・ミニは女優なんだけれど、もっとモデルに近い在り方というか、生な感じがする。ある種、ドキュメンタリーに見えます。では、ドキュメンタリーなのか。例えばロザンナ・アークエットが撮った「デブラ・ウィンガ―を探して」なら女優が実名で出て自分について語ります。これは、そうではない。しかし、役の女とは思えないキム・ミニそのものがそこに居続けている。そんな感じを受ける。ずいぶんと女優の映画を見てきましたけれど、そんな映画はなかなかない。それを成立させるキム・ミニの存在に感動しました。

相田 そもそも男の人は、男の映画監督は、女優、つまり女性を演出することはできないのではないか。生理も違うし、肉体も違う。結果として、美化するか貶めるかという事態が起こってしまう。フィクションの手練れである映画監督であっても、女優=女はコントロールすることができない。こういうふうに演じてほしいという男の欲望を受け止めながら、その人自身である何かが零れ落ちてしまう。その人しかない輝きを見出すために、役柄やシチュエーションやライティングがあるのでしょう。しかし、小林さんが言ったボタンの外し方のような、日常的なことが残るわけです。それはその人が生きていて手をどうやって動かしているか、ということ。衣服とどう向き合っているかとか、それはもう哲学とか美学に類すること。食事をするシーンは、それが出るから怖いんです。ラブシーンとかキスシーンは身構えるじゃないですか。普段のセックスは見せない。でも、食事のシーンは普段が出てしまう。

小林 「夜の浜辺」って、キム・ミニがたばこを吸うシーンが多いじゃないですか。なんかタバコを吸うシーンって、例えばシャーロット・ランプリングとかエヴァ・グリーンなら、ファムファタル的でなんかかっこよく吸いますよね。キム・ミニはなんというんだろう、空気を吐くより、空気を吸っている感じがする。ホン・サンスは意図とは別にキム・ミニの呼吸を撮っている。息遣いとかが伝わってくる。それは演じる、というより、キム・ミニにある、ある種の切なさなんですよね。とてもスリリングな状態で、女優を撮る、女を撮る、ということをずっと考えてしまった。

相田 「夜の浜辺」は「正しい日 間違えた日」のあとに撮っている。落ち着いた中でスキャンダルになりつつ、ホン・サンスなりの遠慮もあったと思う。付き合い始めの男女が相手を尊重することに近いのかもしれない。スキャンダルになったからこそ撮れた映画でありつつ、あえてその映画を撮るためには、心遣いがあるはず。いい意味でホン・サンスは腹がくくれていない感じがあった。キム・ミニの自由を感じた。もし、女優キム・ミニを語るなら「夜の浜辺」なのかもしれない。